世界はそれを愛と呼ぶ
愛してるなんて、結局最後まで言えなかった。
薄ぼんやりと曇る空を見上げ、張遼は小さく溜息をついた。
さしたる理由があるわけではないが、何故か曇天は気が重い。
いっそ晴れるか雨でも降ればいいのだ。
そうすればすっきりするような気がする。何となく。
「張遼」
遠くから声。と、同時に土を蹴る足音が聞こえる。
振り返れば陳宮が小走りにこちらへ来るところだった。
「すまぬな、急に呼びたてて」
長い距離を小走りで来たのか、息が少し上がっている。最近、この軍師は体力がないようだ。
常日頃、机に向かっていれば運動不足になってもおかしくはないが。
ふう、と一息ついての謝罪の言葉に、張遼は薄く笑んで答えた。
「構わん、丁度手が空いていたところだ」
「そうか、それならば良かった」
陳宮はそう言うと、荷物を大事そうに抱え直し、小さく頷いた。
陳宮が彼に声をかけたのは、丁度昼を過ぎた頃である。
将兵たちは調練を済ませ、昼餉を摂る。
張遼も調練場の整頓を終え(本来は新入りの兵などに任せるのだが、彼はこういった雑務も自らやらねば気がすまない性質らしい)、城内の庭園に座り、持参していた弁当を広げていた。
そこにやって来たのが、陳宮である。彼は張遼を見つけると、手を挙げ声をかけた。
「張遼、良いところに居た」
言うやいなや、彼は張遼のすぐ傍まで来、隣に座り込む。
「何か御用か」
張遼は弁当を食べる手を休めることなく、陳宮に尋ねる。
出会った当初は礼式に則った挨拶をしていたものだが、今となっては互いに面倒を嫌う性格ゆえか、おざなりになっている。といっても、他の将兵や文官などに会うときは挨拶を怠ることはないので、互いにのみ限られるものだが。
その、格式ばった礼を必要としない関係を、少しだけ張遼は意識している。
特別な関係、と言えば大袈裟になるだろうか。けれど、他人と違うということに少しだけだが、喜びを感じるのだ。
…陳宮はそんな事を感じていないかもしれないが。
「今日の夕方は空いているか?」
「夕方?」
突然の問いに、少しだけ張遼は焦る。
頭の中で予定を思い返す。夕方には特に何も予定は入っていなかった。
「特に予定はないが…」
「そうか…出来れば、お前に付き合ってほしいところがある」
そういって陳宮は一方的に約束を取り付けると、来る時と同じ無駄のない速さでまた回廊へ戻っていってしまった。そのまま執務室のある方へと歩き去る。そこまで見送って、ようやく張遼は自分の手元に目を遣った。
弁当を食べる手がいつからか、止まっていた。
こうして冒頭の待ち合わせに戻るのだが、陳宮の“付き合ってほしいところ”というのは、どうやら馬商人のところらしい。
西涼騎馬兵を率いる張遼ならば、馬を見る目も肥えていると判断してのことだろう。実際、陳宮が一人で買い付けにくるよりは、断然効率も良いし、良馬も手に入る。
張遼が馬を見れば、その馬がどういった活躍をしてくれるか、軍馬に相応しいかなどはある程度ならばすぐわかる。馬商人との交渉も慣れている分、早く済む。
駿馬40頭ばかりを選んで、この日の買い物は終わった。
「いや、今日は本当に助かった」
城への帰路で、陳宮はすっかり軽くなった荷物(馬を買うための金が入っていた)を抱えて、口元を綻ばせて言った。
その顔は、西日に照らされて赤くなっている。
「兵糧などの手配なら簡単にいくのだが、馬などの生きているものはよくわからなくてな。やはり、よく知る者に任せるのが一番らしい」
「だろうな。俺も兵糧のことはよくわからん」
実際、陳宮の兵糧の手配は見事なものだ。どこからそんなに集めてきたのか、と問いたくなるほどの量を集める。領民から無理矢理集めたのかと思えば、そうではないようだ。こと兵糧や租税に関して、不平不満の声は上がっていない。
「それに、一人で来るよりは楽しいものだ」
呟くような陳宮の言葉に、少しだけ返事に困った。
この男の、こういうところが厄介なのだ。
心の奥底、ほんの少しだけ燻っている想いといったものが、この男の些細な一言で僅かずつ広がっていく。本人に全くそのつもりがなくとも、だ。
それが恋なのか愛なのかどうかは張遼にはわからない。けれども、とてつもなく近いところにあるというのはわかる。
小さなきっかけで、それはすぐ恋だの愛だのに転じてしまう気がするのだ。
張遼は心の揺れを表には出さず、ただ小さく、「そうか」とだけ返す。
その顔もまた、西日に赤く染まっていた。