サロメ
液体が跳ねる音。
ごとりごとりと何かかたまりが落ちる音がして、暗闇の中彼が笑ったのを息遣いで知った。振り返る。
「呂布」
暗い声音で名を呼んでくる。
ああ、もう何もかも、何もかも。
全てが混沌としている。この男は。
深く関わるな、そう全身が告げている。
「呂布自ら私を訪ねてくるとは、珍しいものです」
明るい場所に出た李儒は、にこにこと白い顔に笑みをはりつけていた。
そう、彼はいつだって明るい。身振り手振りもコミカルで、話し口調も明朗快活。
ただその明るさが、ダーティな行為をしている最中にもあるのだから、気味悪がられるのは仕方のないことだった。呂布もそういう面は好きではない。
指についた得体の知れないものを真新しい白の布で拭きながら、呂布にとってはあまり馴染みのない彼の私邸の中を先導して歩いている。
「…拷問でもしていたのか」
先ほどの光景を思い返し、呂布は眉根を寄せながら問うた。
「拷問」
はたと足を止め、さも意外といった顔をして李儒が振り返る。
「私がですか?何故?」
私は曲がりなりにも軍師ですよ、と満面の笑みで続ける。呂布はその笑みに、薄ら寒いものを感じた。
「しかしつい先の」
「あれは拷問じゃありません。ただの、趣味です」
より悪い。ただの趣味にしては、酷い趣味もあったものだ。言いかけた言葉を口の中に封じる。代わりに呂布は今まで俯いていた顔を上げた。用件を思い出したのだ。
「董相国からの伝言がある」
「それは茶を飲みながらでも構いませんね?」
どうせ女を増やせとでも仰せでしょうと笑みを浮かべて李儒が言う。正しく其の通りだったので、呂布は何とも言うことが出来なかった。
広い部屋に入る。そこは来客応対に使う部屋のようだった。李儒は大きな椅子にどっかりと腰掛け、向かいの同サイズの椅子を呂布に手で勧める。
「今茶を用意させます」
そう言って手を叩くと、奥の戸が開いて中から女が出てきた。
少し、やつれている。
伏し目がちで、色の薄い口元が薄く開いているからそう感じるのかもしれない。
「呂布に茶を」
李儒は女の方を見ようともせず言葉だけで告げた。女は頷く。はい、とも言わぬ。そうして現れた時と同じように音もなくゆったりと奥へ消えていった。
「今の女は」
「ご存知ありませんでしたか?私の妻ですよ」
という事は董相国の娘か。先ほどの女の様子を呂布は頭の中で思い返す。でっぷりと太った董卓とあの痩せた女は、比べてみても共通点といったものがない。
むしろ、対照的ですらある。
ぎらぎらと生に執着する董卓と、全てが虚ろなあの女。
しばし黙考していると、李儒が目を上げてふと笑んだ。口を開く。
「抱きたければ、お貸ししますよ」
「何を言う」
あれはお前の妻だろうと眉を顰めて言えば、李儒は益々笑った。
「純朴なことで」
馬鹿にされていると感じた呂布は、すっくと椅子から立ち上がった。もう用件は殆ど伝わったようなものだ。この場に居る理由は何もない。
「お茶は?」
「要らん」
「それは困ります」
うちの妻が今一生懸命淹れてるんですよ、と肩を竦めながら言う。その妻をないがしろにしようとしたというのに、妙な事を言うものだ。そう思って呂布は李儒を見やる。李儒はにこにこと笑っていた。
「愛せないんだから、仕方ないじゃないですか」
ねえ?眉根を上げて李儒が笑う。呂布はなんとも言えない。
愛は本当にないのか、そう問うのも駄々をこねる子供のようで。
そもそもこの男には愛という概念があるのか、ないのか。
それを問えば何と答えるか、簡単に答えはでる。
「首だけになれば、きっと愛せますよ」そう言うに違いないのだ。
女が茶を運んできた。
そのおぼろげな全てが、呂布の目に刺さるようだった。
女と目が合う。女は李儒のように笑ってみせた。