空と空の間を生きる

知っているのだ、何もかも。目は口ほどに物をいう。

ある夕暮れの美しい日だった。馬超劉備に降って後、暫くも経たないときのことである。
家族を失い、その身を報仇雪根の念に燃やし、呂布の再来と言われた男。頼もしい仲間が入った、と思うものもいただろう。

けれど、物珍しげな目で見ている人間も、確かにいたのだ。

馬超が次第にそういう視線を嫌うようになったのは、当然のことであった。

そんな折、彼の愛馬が怪我を負う。戦でのことではなかった。些細な怪我だ。
調練の時間に、突然ある兵卒へ向けて凄まじい速さで駆けていったのだ。

その兵卒は当然驚き、手にもっていた剣で馬を斬ってしまった。怯えた上での一撃だ。当然切り傷も浅い。
しかしその傷に馬は興奮してしまう。慌てて馬超が愛馬をなだめた時には、その兵卒はもうすっかり顔を腫らしていた。

何故突然そのような行為をしたのかわからない。
馬超は、その兵卒が馬超のことを物珍しいものをみるように見ていたからだと思うようにした。

愛馬の手綱を引く。傷からは少し血が出ているようだった。早めに治療してやらねばならない。兵卒の方は、相変わらず寝転がっている。
ちらりと目を遣り、どうしたものかと馬超は思った。

特別な恨みはない。いまや劉備の軍の同胞でもある。だが、あの目が気に食わなかった。
他愛も無い視線なのに、なぜか胸を強く打つ。本人に悪気はないのだろうとわかっているのに、なぜか苛立ってしまう。

知らぬうちに、手に力が入っていた。

「馬超殿」

静かな声音にはっと後ろを振り返る。趙雲だった。少し心配そうな顔でこちらを見ている。恐らくはこの兵卒の心配をしているのだろう。

「…傷はそう深いものではない。俺の馬は、同胞を殺さん」
「身動きがとれぬようです」

見ればわかるといいたかった。この男は、きっと馬超を責めているのだろう。
愛馬がかの兵卒を蹴ったことで、ではない。その兵卒を助け起こそうともせぬ俺を責めているのだろう。そう馬超は思った。

趙雲は、心根の優しい人間だ。だからこそ、思う。彼はこの兵卒に同情している。
視線の刃のことなど、意にもかけぬのだ。恐らくは知らない。

こんなことを思うのは、理不尽だと思う。
けれど、なぜだかとても、この男に腹が立った。

「馬超殿、私が彼を運びましょう」
「優しいのだな、趙雲殿は」

吐き捨てるように言った。そして愛馬へ向き直る。厩舎へ。
後ろは振り返らない。振り返る必要もなかった。

久し振りの戦だった。劉備の傘下に加わってからは初めての戦になる。
いつもの愛馬は、この間の傷でうまく走れない。仕方なく馬超は、劉備から軍用馬を借りそれに騎乗していた。

愛馬と違って、速く駆けることはできない。今日はこのまま戦を傍観していよう、と思った。
大局は、馬超が何もしなくとも決する。それほどまでに士気というものが違う。

毒づくような声が近くであがった。張飛だった。
馬を矢で射抜かれたらしい。その顔からは苛立ちがうかがえる。

「張飛殿」

呼びかける。おう、馬超かと張飛が返す。

「馬をお貸ししよう。俺の分も働いてきてくれ」

言いざま、馬を降り張飛のもとへ走らせる。
馬を止め、跨った張飛はにっと笑うと、任せておけと一声かけ、瞬く間に戦場へと吸い込まれるように消えていった。

暫くして、矢が全く飛んでこなくなった。張飛の仕業だと、そう思った。

何か、背中に刺さるような視線を感じた。目線をそのもとへ遣る。

こちらを物珍しいものを見るような目で見ている人間がいた。敵方の兵卒のようだ。ぽつんと、騎馬と兵が入り乱れる戦場でただ一人、こちらを見ている。
なぜかはわからないが、その目に無性に苛立った。

鮮やかな赤が舞った。ぱたた、と音を立て、地面に赤が散る。
目の前の、馬超にとっては取るに足らない、ただの一兵卒が驚いたような顔で自分の槍と馬超を見ている。

がくんと膝から崩れ落ちる。ああ、これで終わるのか。ふっと笑んだ。

まだ、生きている。

力を振り絞り、手にした槍で敵兵を貫いた。その拍子に槍は穂先から砕けてしまった。喚声をあげられる前でよかった。周囲に生きた兵は一人もいない。
遠く、喚声が聞こえる。あれは果たして友軍か敵軍か。どうでもよかった。

肩口を押さえる。出血は多いが、傷はそう深くない。しかし、止血をする気力もない。
深く攻め入りすぎた。身体は疲れきっていたのだ。気付かなかった。

ここで終わるのか。もう一度、そう思った。
それも悪くない。見上げた空は綺麗に澄み切っている。すっと目を細める。

目の端になにか映った。
幻覚だ、そう思った。
目を戻す。幻覚ではなかった。

満身創痍で趙雲が駆けてくる。
馬は?何をしているのだ貴殿は。そういいたかった。

けれど声が出ない。せめて、せめて気付かないでくれれば。
戦場で大義を忘れ、敵を侮り、馬もなく、敵へ向かい、傷を負い、倒れた。そんな姿を、他人に(ましてや趙雲に)見られたくは、なかった。

馬超は生まれて初めて祈った。だが、祈りも空しく趙雲は彼を見つける。
立たれよ。趙雲は言った。立てない、とは言わなかった。

「本陣へ戻りましょう」

馬もなく、武器も折れた満身創痍の男が二人、どのようにして本陣に戻るというのか。
絶望的だと思った。希望は少ない。

それでもまだ、生きているのだ。この空の下、大地の上で。

ただ、肩を貸しあい、先へと進む。本陣へ。疾く、本陣へ。
そこに敵がいないのだけが救いだった。

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