不器用と器用貧乏のお話
馬騰が死して後、ホウ徳はそのまま長子の馬超の配下となった。
与えられた邸の庭先の縁側に腰掛け、ゆったりと暮れる夕焼けを見る。
風が頬をかすめ、その冷たさに夜が近い事を知った。
武人にはおよそ似つかわしくないこの穏やかな日を、ホウ徳は心から愛していた。
傍らに置かれた茶器からは芳しい香り。
あと数分蒸せば、もっと良い香りになるだろう。
そろそろ彼が来る。丁度調練が終わる頃だった。
「ホウ徳殿」
軽装の馬超が、庭の塀からひょっこりと顔を出した。
目を遣ると、にっこりと笑ってその塀に手をかける。
「今日もお邪魔するぞ」
掛け声一つ、塀を乗り越える。幼年の頃よりも、随分と身軽になった。
背が伸びたのもあるだろうが、幼い頃は手伝ってやってようやく乗り越えられたのだ。
「これは、馬超殿。何か御用ですかな」
「いや、特に用はない。昨日の続きでもと思って来たんだが」
そう言って、手に持った碁盤を見せる。
ここ数日、よく馬超はホウ徳と碁を打って遊んでいた。
昨日は途中で大雨が降りだし、勝負が流れてしまったのだ。
「良いでしょう。今日は雨が降らないと良いですな」
「ああ、また勝負が流れたとあっては悔しくて夜も眠れんからな!」
言いながら、縁側に歩み寄り腰を下ろす。
手に持っていた碁盤を置くと、袋に詰められた碁石を分け始めた。
一つ一つ手に取っては、分けていく。
効率は悪かったが、ホウ徳はこの子供のそういう所が好きだった。
家人に馬超の分の茶の用意を申しつけ、その正面に座る。
「今日は雨が降らないといいですな」
言うと、馬超はふと笑い、天を指した。
「雨など降るものか。空はあんなに晴れている」
ホウ徳はすっと目を細めて空を見た。西涼の空だ。
じっと空を見つめ続けていると、馬超が痺れをきらしたのか、
「今は空より碁だ」
と、口を尖らせて呟いた。
「そうでしたな」
ふっと笑って碁盤に向き直る。
そうしてようやく、馬超は笑んだ。
「………」
馬超が碁石を構えたまま、硬直している。
「馬超殿」
「な、なんだ」
声をかければ、少し強張った声。馬超が顔を上げた。
「暗くなってきましたぞ」
よほど碁に夢中になっていたのか、馬超は全く気がついていない様子だった。
目を丸くして空の様子を見ている。夕暮れも、もう遠い。
「最近は日が落ちるのが早いな」
溜息とともに、先ほどまでじっと構えていた碁石を傍らに置く。
そしておもむろに碁盤を片付け始めた。
馬超は命を狙われることもある。夜になれば、もう邸に戻らねばならないのだ。
「後は某が」
ホウ徳が手際よく片付けはじめる。
その手の動きを馬超は何をするでもなくじっと見ていた。なんとも視線がむずがゆい。そう思いホウ徳は顔を上げる。
すると馬超は常にないぼんやりとした顔でこちらの手の動きだけを見ていた。
「馬超殿?」
「いや」
なんでもないと言い、縁側からぴょんと飛び降りる。そのまま行くかと思えば、背を向けたまま動かなくなった。
やがて、彼がぽつりと呟く。
「また今日も決着がつかなかったな」
声音に寂しさを含んだ言葉だった。ホウ徳はしばし何も言わない。
「また明日、邪魔をする」
言い切るやいなや、ぱっと走り出し塀を越えていく。声をかける隙も与えられなかった。
何か言わねばならない事があるような気がする。けれど相手はもういない。
ホウ徳は溜息をつくと、片付けを再開した。
そして自分の手に目をやる。馬超は何を見ていたのだろう。