恋心?
指の間をすり抜けていく流水のように、
頬に触れるそよ風のように、
手のひらの上で音もなく融けてゆく雪のように、
近づけば見えなくなってしまう陽炎のように、
静かで、そして触れる事の敵わぬひと。
何かがこんなにも心を縛り付けるだなんて、
自分の一生には無いと思っていたのに。
ふらふらと目的もなく歩き、
気がつけばいつも遠巻きに見るあのひとの部屋の前で。
自分の足はどうかしているのではないだろうか、と思い、
次いで頭がどうかしているのではないかと怪しむ。
折角ここまで来たのだから、声をかけよう。
そう思って扉をノックしようと思うも、
手も動かなければ指一本として動かなかった。
(緊張しているとでも?)
戦の時でもどんな危険な任務につく時でも緊張などしなかったのに?
「あの…趙雲さま」
自分の名を呼ぶ声に、目を向ける。
こういう時には体は素直に動くのに。
後ろには、女性の姿。恐らくは宮に仕える侍女だろう。
少し困ったように笑っている。
「馬超さまに何か御用でもおありなのですか?」
優雅に一礼をしてからそう聞いてくる彼女に、
「いや、用というほどの用は無いんだ。
少し…その、そうだ、
お暇だったら調練のお手合わせでも願おうかなと思ったんだが」
即興で考えた理由を挙げて、苦笑しながら後ろ頭を掻く。
すると侍女はにっこりと微笑んで、
「あら、馬超さまでしたら、先ほどからお暇そうにしてらっしゃいます。
お呼びしましょうか」
「いや、そんな、突然だし…」
「馬超さま、趙雲さまが調練のお誘いにいらしてくださいましたよ」
言うが早いか、扉を無造作に開ける侍女。
部屋の主に断りもなくそう堂々と開けていいのだろうか。
見ているこちらがドキドキする。
本当は、そんな事を考えるほど余裕は無かった。
扉の向こうに、いつもの鎧兜を外して机に突っ伏す姿を見て。
「あら、お休みのようですね…申し訳ありません、趙雲さま」
「…いえ、貴女のせいではありませんし、その…」
元々、誘う言葉も勇気も無かったから、丁度よかったというか。
「起こしましょうか?」
にっこりと笑って言う侍女。なんと言うか、この人は豪傑だと思う。
「いや、それは申し訳ないですから」
また次の機会に、と一礼して立ち去る事にした。
寝ている人を無理やり起こしてまで付き合わせるつもりは無い。
それに、大した用でもないのだ。
背中に侍女の視線を感じながら、長い回廊を歩く。
自分に言い訳をしながら。
する事もなくフラフラと歩いているうちに、調練場へと来ていた。
既に午後の調練も終わっているこの場所には、
全くと言っていいほど兵の姿がない。
誰も時間を過ぎてまで己の腕を磨こうとは思わないのだろうか、と一人嘆く。
そういう自分も、ちゃっかり休んでいたのだが。
壁に立てかけられた無数の槍のうちの一つを手に取る。
普段使っている自分の愛用武器とは強度も違えば、
刃すらまともについていないこの槍は、訓練に使う使い捨てのものだ。
振ればずしりと手に重みが来る。
軽くくるりと回して構えを取り、槍の穂先を前に突き出してみる。
『強行突破には最適だろう?』
そう言って、眼前の敵を蹴散らしていったあのひとを思い出した。
大きく溜息をつく。
また槍をくるりと回して両手に持ち、そっと壁に戻す。
そうすると今度は調練場の中央に行き、胡坐をかいて座った。
目を瞑り、回想する。
義務の調練も終わり、軍務も終え、当分は戦の予定もなく。
久々に与えられた暇を費やす術を、そういえば自分はあまり知らない。
だから、今日のようにああしてフラフラと出歩き―――このざまだ。
最初から与えられた時間を自主訓練に全て費やせばよかっただろうか。
もう、今更何を考えても遅いけれど。
「趙雲殿」
最初は幻聴か何かかと思った。
目を開けば、調練場の入り口ほどに眠そうな顔で立っているあのひとを見た。
「…馬超殿?」
思わずぽかんと口を開いたまま、問い返す。
声も少し間抜けだった気がする。
寝ぼけ眼でこちらをぼんやりと見返している相手が、口を開いた。
「…お眠りかと思ったんだが、違ったようだな」
にっと笑うその顔に服の繊維の後が見える。
起きてすぐここへ来たのだろうか、よく見れば服もしわだらけだ。
けれどその姿が間違いなくいつも遠くから見ていた馬超孟起その人とわかって、慌てて胡坐を解いて立ち上がる。
彼は背中を伸ばして、肩を鳴らしながら戸口から中へと入ってきた。欠伸をかみ殺しているのがよくわかる。
「馬超殿こそ、お眠りだったのでは?」
「そう、…叩き起こされるまではな」
叩き起こされる。まさか、先ほどのあの侍女だろうか。
だとしたら豪傑どころでなく、万武不当の豪傑だ。
少し褒め称えたいようでもあり、自分の所為で起こしてしまったのならと自責もする。
「…それは…難儀な」
何と言っていいかわからず、呟くように言った言葉に、彼は苦笑で返す。
「別に、そうでもない」
肩が触れるほどの距離ですれ違った。なんだか妙に緊張する。
数瞬後、ようやく声を出した。後ろを振り返りながら、
槍を持って上に上げたり下に下げたりしている彼に問う。
「馬超殿、何を?」
物凄く呆れた顔をされた。
そして、至極当たり前といった顔で、
「調練の誘いに来たのは貴公だろうが」
もっとも、俺は寝てたみたいだがと溜息混じりに言われて、はたと気付く。
先ほどの、とっさに出た言い訳は。
『お暇だったら調練のお手合わせでも願おうかな、と思ったんだが』
あの侍女に言った言い訳は、確かにそうだった。
調練の誘い。自分で言った事を忘れるとは、呆れられても仕方のない事だ。
慌てて壁に立てかけられた槍のもとへ行く。
隣で訓練用の槍を選んでいる馬超の、まだ少し眠そうな顔に、
「少し、ぼうっとしていたようです。馬超殿には申し訳ない事を。すみません」
「いや、別に構わない」
真正面から謝られると変な気分だな、と言って笑う彼。
不思議だ、と思う。
こうして別の場所で見れば、
戦場で見るときや、軍務に追われているときとは違う顔を見せる。
笑ったり怒ったりと、忙しいその表情一つ一つに目を奪われてしまうのは羨ましいからだろうか。
輝くように活き活きとして見えるその表情。
自分はあまり表情が変わっていないだろうから、やはり羨ましいと思うのだろう。
「この槍にしよう。趙雲殿はもうお決まりか?」
比較的重めの槍を手にした彼が、こちらを向いてくる。
「…どうして、眠るのをやめてまで調練に付き合ってくれたんですか?」
不意に疑問が口をついて出た。
真っ正直な彼の目が、何を言っているんだ、という疑問に見開かれる。その様に慌てて我にかえり、慌てたままに頭を下げる。
「すみません、聞かなかったことにしてください」
下げた頭の先で、相手がわずかに身じろぐのがわかった。少し遅れて、声。
「あ、いや、そうじゃなくて…頼むから頭を上げてくれ、趙雲殿。何だか落ち着かないし、第一謝られる理由がよくわからん」
言われて、数秒後ようやく顔を上げる。困ったような顔をした彼。
「すみません、また困らせてしまいましたね」
「いや、………別に困った覚えはない。少し言葉に詰まっただけだ」
やはり困ったような顔でそういう彼は、きっと顔を引き締めて、槍を構えた。
三十合も打ち合っただろうか。
二人の持っていた槍が全く同時にぽっきりと真ん中で折れたのを合図に、二人の調練は終わった。
折れた槍を放り出し、全身を床に投げ出して、肩で息をする。
「…誰かとこんなに打ち合ったのは久し振りだ」
少しやりすぎたな、そういって笑う隣の彼の言葉に、私もです、と声を返す。
息を整え、馬超が口を開いた。
「…先ほど、質問を受けたな」
「ああ…気にしないで下さい。自分でもよく意味がわからない質問だった」
頭を掻いて言えば、彼は起き上がって、こちらを苦笑しながら見てきて。
「いや、……あれの答えを言おう。暇だというのもあったし、…一番の理由は趙雲殿が何故俺を誘ったのか気になったからだ。大した理由じゃなくて悪かった」
そう言って軽く頭を下げてくる。慌てて自分も起き上がる。
肘を強く打ったが、その痛みも感じないほどだった。
「それで、趙雲殿は何故俺を誘ってくれたんだ?…自分で言うのも何だが、あまり話したこともなかっただろう。たまに顔を合わせる程度だし…、親しい者が皆忙しくて消去法でという答えならあまり嬉しくないが」
「とんでもない!」
思わず叫び返して、勢いあまって肉薄する。
驚いた顔を見せた相手に、ようやく体を元の位置に戻し、慌てて弁明する。
少し頬が熱くて、自分は珍しく照れているんだろうと気がついた。
何だか妙に気恥ずかしい空気なのは、何故だろう。
少し頭を下げる。何故だか、相手の顔を見て言うのは出来なくて。
本当に、今日の自分は何処かおかしい。
いつもなら、こんな風に表情を変えたりしないですむのに。
「馬超殿だからこそ、お誘いしたんです」
自然と言葉の裏に気持ちを含ませて言ったその言葉に、
「それは…」
「馬超殿に趙雲殿ー!今宵の夕餉、うちで晩餐会を開くんですがお二人もいかがですか?」
…返事を貰う寸前、陽気な高い声がそれを遮った。
「ああ、姜維殿か。俺で良ければお邪魔しよう。岱も連れていっても良いだろうか?」
「馬岱殿ならば全然構いませんよ。他の方々もお誘いしているので、一人や二人増えた所で…趙雲殿?どうかしましたか?」
項垂れた自分の姿に、不思議そうに姜維が問いかける。
何故、彼は自分が中々言えない言葉をさらりと言ってくれるのだろうか。夕餉の誘いなんて、自分がしたかったぐらいなのに。
「…趙雲殿?具合でも悪いのか?」
気遣わしげにかけられた声に、いつまでも俯いている訳にもいかないと顔を上げる。
少し情けない顔になっていたのを、無理に常の顔に戻して。
「大丈夫です。少し、気が抜けて…喜んで、お邪魔させて頂く」
「では、魏延殿や丞相にも伝えてきますね!では、失礼!」
そう言ってにこりと破顔一笑した姜維が、身を翻して調練場を軽やかな足取りで出て行く。
魏延殿と諸葛亮殿を同じ場所に呼ぶのはよくないのではないか…と、その後姿に苦笑する。
そして、また二人だけがこの場に残ってしまって。
特に何をした訳でもないのに、何故か気まずい空気が流れている。
「趙雲殿」
やがて、口を開いたのは馬超で。
「今日は誘ってくれて、有難う。嬉しかった」
そう言って、軽く頭を下げる。
ああ。
何かがこんなにも心を縛り付けるだなんて、自分の一生には無いと思っていたのに。
「では、夜の準備もあるだろうから…俺はこれで。良ければ、また誘ってくれ」
また夜姜維殿の邸宅で、と言い去り行く背中を、ただただ呆然と。
恐らくは阿呆のような顔をして。
ここに来て、ようやく気が付いた。
自分は、恐らくは――あの若武者に、恋をしているのだろうと。