モニカ

がきんと大きな音を立てて、頭上で刀と剣が激突した。
体重を乗せられた予想以上に重い一撃に、息を詰める。油断した。

こんな腕力はない――そう思っていたのに。
相手の目は、大きく見開かれていた。怒りの眼差しだ。自分が何かしただろうか?

長いようで短かった鍔迫り合いが終わり、互いに数歩の距離を置く。

一度、刀を柄にしまう。
相手が気合を入れなおす前に、説得せねば。

孫権様、おやめ下さい…この周泰が何か気に障る事をしましたか」
「うるさい…黙れ、問答無用だ。斬るっ!」

目が本気だ。本気と書いてマジだ。
主人のためならば命も惜しまない。そう決めたが。

何も理由も告げられず、斬るとは一体?

周泰は戸惑っていた。

彼が悩むのは、理由を知らないからである。

その理由というのも些細なもので。
平たく言えば、周泰が女官をたらしこんでいる、という話の所為だった。

孫権が仕事で疲れきって寝室へ戻ろうと半ば背中を曲げながら歩いていると、女官達の話し声が耳に届いた。
実に楽しげである。

鈴の鳴るような話し声に思わず耳を向ければ、
どうやら周泰の話題で盛り上がっているようだった。

女官のうちの一人が、赤い顔を笑みに歪ませて、

「あの低い声で愛してるとか言われて、まともでいられる訳ないわよね〜!」

孫権の時間が止まった。
硬直した。足が動かない。耳が流れ込んでくる情報を止められない。

なんの はなしを しているんだ?

勿論、女官達は妄想で話しをしているのであって、
実際にそういう出来事があったわけではない。

あの女官の言葉も正常な状態でよく聞けば、仮定で話をしているものと理解出来る。

しかし、孫権の状態は正常ではなかった。

全身が仕事の疲れでくたくたで、精神状態もあまり良いとはいえない。
そんな状況で、あの言葉。

ますます重くなったように感じる体を引きずって、孫権は前進した。
寝室ではなく、調練場へ。

そこで周泰を目にして、孫権が黙っていられる訳がなかった。

剣の激しい激突音が何度も響く。
周りにいる兵卒達はいつどちらが倒れるかと気が気でない。

戸惑った顔の周泰と、珍しく感情を表に出して怒っている孫権。
どちらも猛将と呼ばれるに相応しい人間である。

「…孫権様、おやめ下さい」
「うるさい!」
「…せめて理由を…」
「………」

剣戟の響きが止まる。
肩で大きく息をする孫権が、後ろに下がった。

ふらついているのが周囲にいる兵卒にもはっきりわかる。だが、誰も近寄れなかった。
抜き身の剣を持って、激情に駆られている男の傍に、誰が寄れるというのか?

「正直…私は、裏切られたような気持ちだ。…これが、甘寧や陸遜ならまだ許せた」

ぽつりぽつりと語る孫権の肩が、大きく上下する。心なしか、目の下に隈もある。
体調がよくないのは、誰が見てもわかった。

そんな中、青い瞳だけが怒りの炎に彩られ、何ともいえない迫力をかもし出している。
江東の虎の息子というのは伊達じゃないと、彼の父や兄ならば感心しただろう。

「…孫権様?俺は裏切った覚えなど…」
「うるさい黙れ!」

一喝すると、ますます肩の動きが激しくなる。余程疲労しているのだろう。
相手が抜き身の剣を下げているにも関わらず、思わず周泰は近寄った。

その拍子にふらりと力が抜けそうになる孫権の体を支えて、
(怖いので)剣を彼の手から奪い取る。

先程より近づいた事で聞き取りやすくなった声が、耳に届く。

「お前が…お前が、私に隠れて何かをするのはいい。
 別に私が気にする事ではないからな。だが…」

目を見遣れば、丁度あの青い綺麗な瞳が、じわとにじんだ。
何故だかそれを見るだけで、自分がとてつもなく悪い事をしたような気分になる。

謝りたくて仕方なくなる不思議な力がそれにこもっているのだろうか。

「時は乱世、戦の最中だというのに…に、女官に手を出すなどと…!」
「…………は?」

その言葉は、周泰が理解するのにかなりの時間を要するものだった。
必死で頭の中をまとめる周泰に構わず、孫権は時折どもりながら言葉を続けていく。

「いや、乱世だからこそ女を求めるのは至極当然の事かもしれないが、
 何も私の世話をしてくれている女官をたらしこむ事はないじゃないか」

「孫権様」

「お、お前が私の所為で怪我をする度、彼女に申し訳ない気持ちがして仕方ない。
 いっそ私の事などいいからお前と彼女の挙式を挙げて、
 何処かの土地に家を建てるなりしてだな」

「孫権様」

「こ、…子供をつくって幸せな家庭を」

「孫権様!誤解です!」

その言葉を聞いた孫権の目が、見開かれて。

「…勘違い?」

呟いた瞬間、彼は周泰の腕の中で気を失った。

「疲労ですな」
寝てさえいれば問題ありません、軍医が呆れたように笑って言って出ていくその横で、

寝台に横たわり頭に氷嚢を乗せうんうん唸る孫権の横に居た周泰が、そっと溜息をついた。

『いっそ私の事などいいから、お前と彼女の挙式を挙げて』

あれには傷ついた。
今の自分に、女官のことなど考えていられるゆとりがあるものか。
それに。

「俺から貴方の事を取ったら…何も残らない」

言ってから、本人に言えたらどれ程いいだろうと周泰は盛大に溜息を吐いた。

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