熱
熱を帯びて霞む視界。
この靄がかかったような視界の中に、あの人を映してはいけない。
固く閉じられた扉と、寝台と、そして天井だけが映れば良い。
この目に本当に映したいのは、
困ったことにあの人だけなんだけれど。
トントン、と控えめに扉を叩く音がする。
目を閉じていても、扉の向こうでも、相手がためらっているのがわかる。
きっと寝ていたらどうしようだとか、
病体に障らないかだとかそういう事を考えているに違いない。
――あの人は、優しすぎる人だから。
「幼平、起きているのか?」
「…はい」
やはり遠慮がちにかけられる声。入るか入らないかためらっているのだろう。
入られる前に声をかけなければならない。
「…孫権様、入ってはなりません」
こういう時、口下手な自分が嫌いだ。
こんな言い方では、多少なりともあの人は傷ついてしまうだろうから。
必死に頭の中からつけたしの言葉を捜す。自分はこの作業が長いのだと思う。
浮かんだ言葉に無駄はないか、
相手を傷つけやしないかと思い始めればそれはまた長くなる。
「…私が入っては邪魔になるか?」
それより先に、ためらいがちにかけられた声。
はい、だなんて口が裂けてもこの世の終わりが来ても言えない質問。
「………いいえ」
「なら、入るぞ」
「駄目です!」
間髪入れずに戸を引こうとする扉の向こうの彼に、慌てて声をかける。
勢いあまって起き上がった拍子に、額の上に置かれていた氷嚢がずり落ちた。
「…風邪が、伝染ります」
そう、自分は風邪をひいているのだ。情けない事に。
その証拠に少し鼻声気味で、声が何処と無く情けない気がする。
「そんな事は知った事か。入るぞ、幼平」
そう言って閉められていた扉を無造作に開け放して、我が主人は堂々と入室してきた。
慌てて寝台から立とうとするも、いらんと強く言われてしまう。
その手には色々な物が重ねられ乗せられていて、
少しよろめけばそれらは落ちてしまうだろうと容易に想像がついた。
けれどもそれを少しも気にした風はなく、慎重にゆっくりとこちらへ歩いてくる。
ああ。いつもなら自分が持ってあげられるのに。
そんな事をうっかり呟きでもしたら、
「私も大の大人なんだぞ」とか言って怒るだろうけれど。
「何だ、寝ていたのならそう言ってくれれば良いものを」
寝台に横たわっている姿を見てか、少し驚いたような顔で言ってくる。
別に寝てはいなかった、と伝える前に、近づいてきた孫権の手がずり落ちていた氷嚢を取った。
「……もう温くなっている」
そう溜息混じりに言うと、それを捨て、抱えてきた物の中から替えの氷嚢を取り出す。
冷たいと顔をしかめながら、それを布に包んで、横たわった自分の額にそっと乗せてくれた。
「熱はどれくらいあるんだ、幼平。
替えの氷嚢はいくらか用意してきたが、足りるだろうか」
「……不甲斐ない」
これ程良くして貰って、頭を下げたい気持ちでいっぱいだったが、横たわってる上に額の上に氷嚢が乗せられていてはそれも出来ない。
有難い気持ちと、申し訳ない気持ちと。
どうしたら良いのかわからない自分も情けない事に気がついた。
「いや、良い。お前が弱ってる姿など滅多に見られんからな」
と、にんまりと笑って言う主人。何だかえらく男前に見えるのは病ゆえの気の弱りか。
――それとも惚れた弱みか。
「風邪に効くという薬湯を持ってきた。
苦いかもしれんが…我慢して飲んでくれ。あと、料理人が体力がつくようにと食べるものを…」
「孫権様」
言いながらごそごそと持ってきた物を漁る主人に、声をかける。
一瞬驚いたような顔をされた。
「何だ?…鼻声だぞ幼平」
一言余計だとは思っても良いのだろうか。
「……有難うございます」
言って、深々と礼…は出来なかったが、その代わりに目を伏せた。
「…いや、早く治してくれれば良いのだ」
閉じられた目の向こうから、困ったような声。
恐らく目を開ければ困ったような顔でこちらを見ている主人がいるのだろう。
「……善処します」
幼平が風邪をひいたりしたから、本当に戸惑った。
今まで自分が風邪をひいた事はあっても、
父上や兄上や尚香はひいた事など一度もなかったから、看病の仕方も知らなかった。
風邪ときいて頭に残っている記憶は、兄に「権は病弱だなあ」と笑われた事くらいだ。
それでも慣れない看病をしようと思ったのは、その昔の記憶が原因だった。
熱を出してぜいぜい言っている時に、父上や兄上や尚香が、
見舞いに来ては暖かい言葉をかけてくれた記憶。
それは本当に嬉しかった。
だからこそ、幼平にも看病とまではいかなくとも、声くらいはかけようと思っていた。
けれども、本当に部屋の中に入って彼の顔を見れば、何を言えばいいのかも思い浮かばなくて。
それより何より、私が風邪をひいた時より辛くなさそうだというのはどういう事だ。
体の出来が違うんだろうか、と悩んでみたりもして。
――申し訳なさそうな顔で(これはたまに見るが)、
鼻声気味で(はっきり言っておかしかった)、顔の赤い幼平など初めて見た。
辛いか?と聞けばそうでもないと答える。
なんでもないように見えて、本当は辛いのではないか。
よくよく考えてみれば、心配で心配でたまらない自分がいる。
こんなはずではなかったのに。
何だか悔しいような気がする。
どんどんのめりこんでいく自分に対して、相手の冷静さは何だ。
だから、
有難うといわれた時に、
耳まで真っ赤になっていた事は秘密にして墓まで持っていってやろう。
「……それにしても、私が幼平の看病をするというのはそんなに不思議な事なのか?」
「…は?」
「看病をするから知識をくれと言ったら、家人の皆が今のお前と同じような顔をした」
「………」
「薬湯を用意してくれた医者も半信半疑のような顔をしていたな」
「…それは…」
「私は人の看病も出来ない立場になったのか?」
「……無礼を承知で申せば、単に」
「…単に?」
「………孫権様があまり器用な方でいらっしゃらないから、かと」
「………」
その日、周泰の部屋の前で心配そうな顔をした侍女達が、
やはり心配そうな顔で孫権を見たとか見なかったとか。