君に関しては

「空がせまい」

ふと、そう漏らしたことがあった。
庭を桃の花が一面覆いつくす、そんな春の日。

なぜそう思うのだ、そう問うた。すると相手はふっと笑って、

「天下をうかがうには、今の空は狭すぎる」

やがてその空は広がる事があるか?そう聞けば、

「お前の働き次第だな」

と誤魔化すように笑われた。

唸る風の声を耳に聞く。
空は青く澄み渡っている。雲ひとつとて存在しない。

こんな空の下で馬を走らせていると、なんだか自分がとてつもなく小さく思えてしまう。

少年の頃はまだ奔放に駆け回っていた。
青年の頃はまだ見ぬ果たすべき使命、仕えるべき主君に想いを馳せた。
そして今は、ただただ戦のためにこの草原を駆け回っている。

子供の頃は楽しかったものだ。ふと夏侯惇は懐古し笑んだ。

「何を笑っている?」

後ろから、にやにやしながら主―曹孟徳である―が声をかける。
後ろから見て、よく笑っているのがわかったものだ。そう思いながら夏侯惇は振り返る。

澄み切った空の下、曹操幕下数十騎が草原を走っていた。

「昔を懐かしんでいたのだ。今となっては日々が荒んでしまっているとな」

軽く肩をすくめて笑いながら言う。つとめて明るく。
するとそれを聞いた曹操は、ふっと笑ってから言った。

「夏侯惇よ、お主は今も昔も変わらず見えるがな」

何を言う、昔はもっと純朴な少年だったぞ!と声を大にして言えば、
曹操はもとより後ろに控える者たちからも笑い声が漏れた。

特に夏侯淵の笑い声は大きい。ああくそ、あいつめ。夏侯惇は少しだけ恥ずかしく思った。

曹操の馬が急に速度をあげた。
後ろから一気に追い上げ、夏侯惇の隣につく。

自ら考案した隊列を乱すとは、一体何事か。
不審に思い、夏侯惇は隣を見た。声をかける。

「どうした孟徳」
「他の者はそのままに、お主だけついてこい」

言うやいなや、また速度を上げ、今度は夏侯惇をも追い抜いた。
ぽかんとした顔で夏侯惇はそれを見送る。

夏侯惇は暫くして軽く舌打ちすると、慌てて追おうとした後ろの幕下に声を張った。

「…全軍、隊列を乱すことなく元の速度で駆け抜けい!」

そして自分の馬の速度も上げる。
一旦は離された曹操の馬に、どんどん近づいていく。曹操がこちらを振り返った。

「孟徳!」
「速く追いつけ夏侯惇。この辺りは賊が出るらしいぞ」

笑いながら告げるそんな言葉に、夏侯惇はこめかみの辺りがぴくぴくと動くのを感じた。
怒鳴る。

「お前は、また無茶をする気か!」
「無茶かどうかはやってみねばわからん。それ、あの山の向こうだ!」

曹操が腕を上げ、近くの山へ向かって指を差した。
その目は非常に輝いている。

ああ、この男はこういう無茶が大好きなのだ。夏侯惇は溜息をついた。

「孟徳!引き返すぞ!…おい!孟徳聞いとるのか!!」

怒鳴るように声を張り上げると、やがて、曹操のああという声が返ってきた。
くるりとこちらを振り返る。その顔が、心なしか残念そうだ。

「お前があんまり騒ぐから、気取られたではないか」

否、目の輝きは治まってはいなかった。

刃についた血を払ってから、夏侯惇は愛刀を肩に乗せた。
ふう、と溜息をついて目線を落とせば、曹操がその場に座り込んで大笑いしている。

その陣羽織は所々血を浴びたり、引き裂かれていて、汚くなってしまった。

「久々にこんな無茶をやった」

笑いながら、言う。とても満足そうな顔だった。

「これで気がすんだろう」

もう二度と俺は付き合わんぞ、と言うと、曹操は口角を上げて、

「久々にやって、気が済んだが…これは面白いな。またやろう」
「ふざけるな!!」

勢いよく怒鳴ったと同時に、幕下が駆けつけた。
遅いぞ!と怒鳴れば、夏侯淵がニヤニヤしながら、

「殿の我儘を聞く担当は、惇兄だからな」

と言った。
その言葉に夏侯惇は更に大声を張り上げ、曹操はげらげらと大声をあげて笑った。

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