雪
はらはらと雪が舞う。
それはとても綺麗で、言葉にしがたいもので。
舞い落ちる雪をそっと手で掬い取る。じわりと肌に雪が沁みた。
白い息が後ろへ煙のように流れていく。
振り返り目で追う。白く長いそれは遠い場所まで伸びて、ゆっくり消えた。
世界は、見渡す限り銀だった。
手が赤い。鼻も赤いだろう、先ほどからちらちらと視界の端に映る。
はぁ、と手に息を吹きかける。暖かい空気が一瞬、手を暖めた。
一歩踏み出す。
ぎし、と雪のきしむ音がした。
北部である魏は、冬となれば当然のごとく雪が降った。
はらはらと美しく舞う雪も、積もればひどいもので、
将兵達の本来武具を持つ手には、雪を除する道具が握られていた。
「美しい…しかし美しくありませんね」
はぁ、と大きく溜息を吐いたのは、
必要以上に毛をあしらった防寒具を着込んだ張コウであった。
その手にはあまり多くの雪を撥ねられるとは思えない、
小さな可愛らしい雪はね用のスコップが握られている。
その横には大きな山が出来ていた。
張コウが溜息を吐いている間にもなお雪が上げられ、
その山はどんどんと大きくなっている。
その山の向こうには、二人の武将がやはり防寒具を着こんで、
「にこにこ明るい魏の未来」と書かれたスコップを片手に雪はねをしていた。
口元の髭をくるりとおしゃれに曲げた片方――張遼が、
額の汗(最早凍っている)を拭い、
もう片方の一生懸命に雪を撥ねている武将に声をかける。
スコップを地面に刺して片手でそれを押さえ、
もう片方の手で雪山を指しながら。
「徐晃殿、そろそろあちらに運んだ方が」
「そうですな。では、ママさんダンプをこちらに…」
「美しくないっ!!!!」
一喝が二人の動きを止めた。
「…張コウ殿、いかがなされたか」
驚いたような顔をした、実直そうな武将――徐晃が声をかける。
美しくないとの言葉にどうしたもこうしたもないが、
彼はアドリブに弱いので、上手く言葉が浮かばなかったのだろう。
ママさんダンプを片手に、口をぽかんと開けている。張遼は無表情だ。
張コウはだん、と足を踏みしめた。雪がぎしりと音を立てる。
「雪は美しいのです!」
「…はぁ」
張遼と徐晃が同時に声をあげる。それ以外に返す言葉もなかったようだ。
それを尻目に、張コウは言葉を続ける。
「しかし、私たちはどうです!このような道具を手に汗を流しながら、
雪をワッショイワッショイお祭りよろしく掻き上げているのですよ!
美しくない!美しくないのです!!」
頭を両手で抱え、ああ!と大きく叫びながらその場でいじいじと地団駄を踏む。
はたして地団駄は美しいのだろうか。
暫くその場を支配したのは、沈黙だった。
そして。
「徐晃殿、ママさんダンプから雪がこぼれてますぞ」
「ああ、これは気付かなかった…かたじけない、張遼殿」
二人はまるっきり無視する事にしたようだ。
黙々と作業を続けるその背後で、張コウがまだ悶絶している。
自分の境遇が気に入らないらしい。
それを見た李典が慌てて作業を肩代わりしていた。
魏の武将が暴走する場合は、たいがい彼が止める役である。
この時もまた、そうであった。そして張コウは。
「美しくないのです、李典殿」
夜叉のごとく怒りながら雪をばらまく用心深いことで有名な軍師を見ながら、
荀ケは大きく欠伸をした。つられて曹操も欠伸をした。郭嘉が寝返りを打った。
その拍子に漫画がばさりと音を立てて落ちた。
魏は、冬である。
許昌の城は広い。
司馬懿たちが居るのとは別の庭で、二人の猛将が一つの火鉢を囲んでいた。
その網の上には餅がある。
炭を増やすごとに、パチパチと火が跳ねる。
網の上に乗せられた丸い餅がぷっくりと膨らんでいた。焼き色も実に程よい狐色。
「うんまそうだなぁ」
先ほどまで猛然と餅を突いていた許チョが、火鉢の横で手を温めながら餅を覗き込む。
「まだ食うんじゃねぇぞ。こいつを汁粉にせにゃならんからな」
充分に焼けた餅を箸で一つずつ皿の上に乗せながら、典韋が言う。
餅焼き担当はどうやら彼らしい。
涎を垂らさんばかりにそれを見つめる許チョが、溜息をつく。
彼としてはこの場で味見の一つでもしたいのであろう。
うずうずしているようである。
その頃、その庭に面した厨房では、甄姫が鍋と格闘していた。
「このお汁粉とやら、中々難しいですわね。すぐ吹き零れてしまいますわ」
「甄姫殿、火を弱めては如何です」
汁粉の汁担当の甄姫の言葉に、アシスト役を任命された曹仁が答える。
火を強火にしたままで作っていたために、
その鍋の中身はグツグツと煮えたぎって時折吹き零れていた。
「あら、その通りですね…これでいいかしら?」
火を弱め、お玉でぐるりと鍋の底をかき混ぜ、掬う。
小豆の粒も程ほどに残り、甘い香りが室内を満たしていた。
「そろそろ良さそうですわね。お餅を入れるとしましょう。
典韋達を呼んできてくださるかしら」
「かしこまった。では、ついでに殿達も呼んでくるとしましょう。
朝食には程よい頃合だ」
そう言って戸をくぐる曹仁の背を見、甄姫はそっと砂糖の袋を取り出した。
『小豆が甘いから、あまり砂糖は入れなくても宜しいでしょうな』
やんわりと制止されたときの言葉を思い出す。
その彼は今はここにはいない。そして甄姫以外誰もいなかった。
「…もう少し甘くても宜しいわよね」
どぼり、と砂糖の大きな塊が鍋に沈んだ。
広い宴会場に、魏軍の主力武将達が集結していた。
皆食器を手に歓談している。
雪はね組の一部には、まだ雪をかぶっている者もいた。
まもなく、その部屋を甘い香りが支配する。
典韋と許チョが大きな鍋を運んできたのだ。先ほどの汁粉の鍋である。
全員が食器に触れた。その視線は上座の曹操へ向けられている。曹操が口を開いた。
「残さず食え!」
ガタンと大きな音を立てて、全員の椅子が後ろに倒れた。
「聞いて下さいよ、司馬懿殿。
朝早く起こされたかと思ったら、
あの趣味のよろしくないスコップを持たされてですね」
「食うか喋るかどちらかにしたらどうだ、張将軍」
「まぁとりあえず、あのスコップは趣味悪ぃよな」
「おお、将軍…流石わかっていらっしゃいますね。
見てくれはアレですが、貴方は確かに美的感覚が素晴らしいですよ」
「余計なお世話だ!!」
「何やら甘くなっているような…」
「あら、気のせいですわ、曹仁殿。ほほほほほ」
「おい許チョ!おめぇ食いすぎじゃねぇのか!」
「おいらは皿に入れてもらった分だけ食ってるだよ。
典韋こそ量が多いんじゃねぇか〜」
「醜い争いを私の前でするな馬鹿どもめが!!」
「郭嘉殿、それは私のセリフですぞ!」
半時ほどで用意された汁粉は無くなった。
大した量を作っていたのだが、どうやら皆この武将達の腹の中に納まったらしい。
最後の一杯を蓮華で掬いながら、夏侯惇は雪を見ていた。
「こう大量に降ると、何処から手をつけていいのかわからんな」
前日にどっかりと降った雪は、いまだ小さな粒となって空から降り続けている。
除雪するこちらの身にもなれと、天を少し呪ってみたくなる程の量だ。
「昔を思い出すな、夏侯惇よ」
上座でニヤリと笑う曹操。途端に夏侯惇は渋い顔となった。
「どうせ良い思い出ではあるまい」
「子孝や子廉、淵も覚えておろう。お主が遭難した日のことだ」
それを聞いて、曹仁が苦笑を、曹洪と夏侯淵が吹き出した。
夏侯惇の顔が益々渋くなる。
「お前は全く、どうでも良い事ばかり覚えて…」
「三時間余りも経って、発見されたお前が最初に何て言ったか覚えておるか?」
「黙れ孟徳」
「いや全く、お前も風流な事を言うものだと思ったぞ」
「黙れと言ったら黙れ」
曹操が片眉を吊り上げる。それに合わせて曹洪と夏侯淵が声をそろえて笑った。
雪に覆われた世界は、本当に綺麗だった。
初めて見たわけでもないのに、何故か新鮮な感動を覚えて。
気付いたときには周囲に何もない、雪だけの平野まで走っていて。
一面の銀世界は、彼の童心を充分に魅了した。
上空を見上げる。ふわりと白い雪が頬を掠めた。
背を伸ばす。
唇に触れた。あと少し。
少年は口を開けて空を見た。
見事に舌に触れた雪は、じわりと苦味を残して消えた。
少年は驚いた。そのまま踵を返すと、町の方向へ向けて駆ける。
後に盲夏侯として乱世に名を馳せるこの少年は、
彼を探していた仲間達を見つけると、大きな声で言った。
「白くて綿菓子みたいなのに、ちっとも甘くないぞ!!」
仲間達は、一瞬目を丸くすると、大声で笑った。
少年は何を笑われているのかもわからず、大きく舌打ちをした。
「ところで夏侯惇、その汁粉、甘すぎはせんか?」
皿を指差して言った曹操の言葉に、夏侯惇は不思議そうな顔をして答えた。
「そうか?俺には丁度良かったぞ」
20年前と変わらず、彼は甘党らしい。