たった一度でいいのです
あなたのもとを去ります。
決して探すことなく、あなたはただ安穏とした日々を平和に過ごして下さい。
傷つくことなく、涙を流すことなく。
それが私のただひとつの願いであり、希望でもあるのです。
けれど、少しは気にかけてほしい。
一年、いや、十年に一度でいいから、私が傍にいたことを思いだして下さい。
私とともに空を仰ぎ、酒を飲み、拙い言葉で語り合ったこと、
どうか、どうか心の隙間に置いておいてほしい。
そして、もしこの先私が貴方より先に旅立つ日が来たら、
その時はたった一粒、涙を零してください。
それだけで私は充分に報われる。報われるのです。
冷ややかな空気が肌を刺す。
夜の帳はとうに降りた。
月光が僅か周囲を照らしているが、一寸先は全く何も見えない。
足元で、やたらとかさかさ音がする。枯れた草を踏んだのだろう。
はあ、と息を吐く。それは少しだけ白く、糸を引くように後ろへ流れた。
風が強い。
張遼は一人、山道を歩いていた。
供も、馬も断った。誰にも気付かれぬよう足跡も消した。
家の者にも気付かれぬよう、寝たふりまでした。
そこまでして向かう先は、誰にも知られたくない場所。
彼が戦のない年に、たった一度だけ足を運ぶ場所だ。
ホーホーと何処かで鳥の鳴く声がする。
不気味なそれも、張遼の耳に届かない。
彼はただ一心不乱に先へ進む。
求む場所まで、あと僅か。
唐突に、拓けた場所に出た。
しいんと静まり返った宵闇、弱弱しい月光に一つ、
平坦な土から天へ向かって石が生えている。
「お久し振りにございますな」
ふっと笑う。
その石に、何の意味もない。墓石ですらない。
名が刻んであるわけでもない。特別な石であるわけでもない。
しかし、張遼は石に向かって話しかけるように呟いていた。
仕えるべき勢力が変わった、それだけのことだ。
彼の同僚となった夏侯惇がそう言った。
事実、そうだった。周りの人間は臧覇を除き、全て違う人間になった。別れは、全て死別だった。
彼らは武人としての最期を遂げたのだ。悲しみはあれど、決して長くは続かぬ。
けれど、呂布は違った。
彼が死して後、張遼は心のどこかにぽっかりと穴が空いたのを感じた。喪失感、ではない。空白感だった。
呂奉先を失った。この世に一人の、生ける最強。
彼は、目標だった。道標だった。武に生きるうえで、いずれは超えたい通過点だった。
その彼が、あっけなく死んだのである。
そうして張文遠は、目標を失った。
「その穴、孟徳では埋まらんのか」
夏侯惇がそう問うた。彼にとっての目標、道標は曹孟徳その人なのであろう。
あるいは、曹孟徳の隣で彼を支える。それが目標なのかもしれない。
張遼は違う。曹孟徳は主君であり、強大な軍勢を率い、天下に名を馳せている。
だが、彼もまた、一個人で最強を誇るわけではないのだ。
張遼が目指すは、主君たる者ではない。
武を誇り、武を支え、武を活かす。その道にのみ道を敷く。
「埋まりませんな」
出来うるかぎり明るく答えた。
下手な表情をすれば、この夏侯惇が黙っていないからだ。
「では、その代わりになるような者はおらんのか」
「探しております」
その後も夏侯惇は、酒はどうだ、女はどうだとかわるがわる対象を変えて質問した。
それら全てに、張遼は道標とするには弱い、とだけ言った。
「なら、墓参りでもしたらどうだ」
不意に夏侯惇がそういった。
墓がどこにあるというのだ。まして、呂奉先の命の通わぬ身体など見たくない。
曖昧に濁して、張遼は答えた。
「二心があるものと疑われましょう」
夏侯惇が眉をへの字に曲げる。なにを言っとるんだ、と彼は言った。
「本物の墓に行けと言ってる訳ではない。自分で何か作って、それを墓といえばよかろう。別に、気休め程度のものでいいのだ」
なるほど、と張遼は思った。けれどそれを表情には出さない。
にっと笑んで、
「調練に忙しく、そのような暇はありませぬ。
今は軍事が生きがいと言ってもよいでしょうな」
とだけ言って、その場から立ち去った。
暫くして、張遼は人知れぬ山奥にひとつの大きな石を運び入れた。
横幅は細く、厚い石を選んだ。
これから何年、何百年と立ち続ける石だ。強い石でなくてはならない。
初めはそれを横に倒して置いてみた。
何か言葉を彫るには丁度よい。しかし丁度よい文句が浮かばなかった。
それに、張遼は呂奉先を語る言葉をもたなかった。
今度は、立ててみる。
まっすぐ天を突き抜けるように立ったその石に、少しだけ呂布を思い浮かべた。
これでいい。張遼はそのまま、石をしかと立つように固定した。
言葉は何も彫らない。花も置かぬ。
それでも、それを呂奉先の墓と思った。
当然、遺体は埋まっていない。夏侯惇の言う通り、気休めだ。
しかし、石の肌に改めて触れたとき、どうしようもない気持ちが胸を突いた。
今度こそ、この墓をたてることによって、呂奉先は死んだのだ。
この胸の、奥底から完全にいなくなったのだ。
張遼はそれ以来、戦のない年に一度だけそこに足を運ぶようにした。
『墓』の前に鎮座し、張遼は何をするでもなくただぼうっと石を見ていた。
近況報告をするわけでもない。よくも置いていったなと言うわけでもない。ただただぼうっと石を見る。
石は雨水で幾分か削れていた。
細かった横幅が、更に数ミリ細くなっている。
長くもたせるつもりで選んだ石だが、どうやらそう長くはもたぬようだ。
それでよかった。
ここを知っているのは張遼だけだ。
その張遼も去れば、この石は誰にも知られぬ事となる。
せめて自分の在るうちだけ存在すればいい。そう思った。
やがて空がしらけてくる。
石に反射した陽光を見て、張遼はすっと目を細めた。
そろそろ、邸に戻らねばならない。
そして床に入り、寝た風を装わなくてはならない。
張遼は立ち上がった。服についた土を払う。
そして石を見、手をそれに差し伸べる。
指先に触れた石は冷たく、一年の夜を耐え抜いたことを教えてくれる。
張遼は、誰にともなく呟いた。
「あなたと私が、逆であればよかったものを」
そうして笑う。
「また翌年、お会いしましょう」
病がその道を閉ざすときまで。