いずれは私も
懐かしい、夢を見た。
「酒はいい、忘れたい事は全て忘れさせてくれるぞ」
「私には、呂布殿のいない場所など想像もつかない」
「お前は水のようだ」
「痛い」
「人は死ぬ。いずれは私も死ぬのだ」
「張遼」
「 」
ふわりと酒の香りが城内を包んでいる。
回廊を歩く張遼にも、その香りは届いていた。
香りだけでも酔ってしまいそうだ。そう思い、鼻を手で覆う。
今は何故だか、酔いたくない。
それは、呂布が漏らした弱音の所為だったかもしれない。溜息をつく。
きい、と戸を引く音がした。目を遣る。
腹を押さえた男が、ゆったりとした足取りで室から出てくるところだった。見知った顔だ。
「痛むのか」
こちらの気配には気付いていなかったらしいその男は、少し驚いた顔で振り返る。
張遼か、という言葉が安堵の溜息とともに口から零れた。
その手は変わらず腹部を押さえている。
「陳宮、胃が痛むのか」
もう一度問うと、相手は軽く笑った。
「いつもの持病だ」
痛くない、とは言わない。
会話はそれで終わったといわんばかりに、陳宮は歩みを戻す。
すれ違うそのとき、ふと張遼は疑問を口にした。
「今から酒宴に参加するのか」
陳宮は酒宴の用意こそしていたが、胃が痛いといって参加はしていなかった。
そして、張遼は丁度酒宴の場から出てきたところだ。
このまますれ違えば先は酒宴の会場となる。
飲めるのか、そう思って問うた。
「胃が痛むゆえ、飲まぬが…席にはつかねばならないだろう」
ふう、と溜息をつきながら答える。口元には苦笑。
どうせ呂布は飲ませる。張遼でさえ大分飲まされてきたのだ。
この軍師など、辛気臭いからと浴びるように飲まされるのではないか。
「気が進まぬならやめておけ」
暫くして、そういう訳にもいくまい、と小さな声が返ってきた。
「私が呼び止めたことにすれば良い」
「しかし」
陳宮が振り返る。胃を押さえていない手を取り、張遼は歩き始めた。
「張遼」
「そのような辛気臭い顔で行けば、呂布殿に浴びるように飲まされるだけだぞ」
そういうと、陳宮は黙った。ついてくるようだ。
張遼は手を放し、先導するように歩いた。
張遼の室で、陳宮は実に居心地悪そうに薬湯を啜っていた。
眉間に皺が寄っている。それを見て、張遼は問うた。
「やはり、不味いか」
「不味いな」
間髪いれず答えが返ってくる。
それを聞いて張遼は笑った。それはそうだろう、と言葉を続ける。
「滅多に薬湯など淹れぬからな。勝手がわからなかった」
遠慮せず残していいぞ、と言えば、陳宮は首を横に振った。
「不味いものほど効くともいう…」
言いながら薬湯に息を吹きかける。ぼうっと白い湯気が立ち上った。
湯気はするすると天井へ昇っていく。張遼はそれを目で追った。
「張遼」
目を戻す。陳宮はどうしたと問うことも躊躇うほど真顔だった。
「私は実際に役には立てぬが、此度の戦」
一度言葉を切った。そうして暫く黙る。
張遼が続きを促すようにその伏せられた目を見遣ると、ようやく続きを言った。
「勝てると思うか」
ぽつり、呟くような声音だ。
言い放ってすぐ我に返ったように、忘れてくれと呟くと、陳宮は再び薬湯を啜る。
相変わらず目を伏せている。椀に添えていた手を片方、腹に遣った。押さえる。
まだ、痛んでいるようだ。そこまでの動作を見てから、張遼は静かに答えた。
「…戦にならねば、わからぬ」
「私は勝ちたい」
間髪をいれず、陳宮が言う。
それを聞いて、少しだけ張遼は不思議に思った。
思えば、この軍師が呂布につき従うその理由がわからない。
張遼や高順などははっきりしている。ただ呂布の武に付き従うまでだ。
だが、陳宮は違う。陳宮は武の極みなど、求めていない。
呂布の派手すぎる武威も、どこか邪魔に思っているきらいもある。
そんな彼が、呂布の世を考えている。可笑しいと思った。
呂布の武の先にある世が平らであるとは、張遼には思えなかった。
いっそ、曹操が世をとれば泰平になるのでは、とまで思う。
陳宮はそれを一番知っているはずだ。
張遼はあえて冗談めかして笑ってみせた。
「軍師殿の口からそのような言葉を聞けるとは」
陳宮も笑んだ。しかし、その顔をすぐ俯かせ、薬湯の入った椀を文机に置く。
「軍師殿」
「…馬鹿げたことを、と思うか」
ふと呟く。目は張遼の方を向いてはいない。文机に置かれた椀を見ている。
腹に当てられた手に、力が入っている。
その所作に、えもしれぬ不安を感じ、張遼は立ち上がった。
文机を挟んで正面にいる陳宮の横に座る。陳宮が顔を上げた。
「平らになった世を見たい」
呟くその眉根に皺が寄っている。
「どれだけ年月が経とうと、必ず世は平らになる」
張遼が返した。今は乱世だが、やがては必ず治まり、そうしてまた乱世がくる。
それが歴史だ。今まで大陸が歩んできた、確かな歴史だ。
陳宮はそれを聞き、ふと笑んだ。
「平らになるか。出来ることなら、この目で見たい」
「見れるさ」
出来うるかぎり軽い語調で、張遼は答えた。しかし陳宮はまたも俯く。
「私の生あるうちに治まると思うか」
「軍師殿」
肩に触れる。彼は小刻みに震えていた。
胃を押さえる手にますます力が篭もっている。
「人は死ぬ。いずれは私も死ぬのだ」
搾り出すようなその声に、張遼ははっとなった。
「悲しいことを言うな」
「長く生きてきた」
軍師が独白する。静かな声音にはしかし力が篭もっている。
「曹操のもとに天下を夢みたこともあった」
肩を抱き寄せる。震えは大きくなっている。けれど決して涙は流していない。
「私でも、曹操のもとに天下を見出せる気がするぞ」
言葉を返す。陳宮は頷いた。そうして言葉をつむぐ。
「曹操の天下を見、それを求める者は無情にならねばならぬ時がある」
「徐州の虐殺か」
「それもある」
陳宮は、忌々しそうに呟いた。
それが原因で曹操のもとを離れたのだという噂を聞いたことがある。
「無情か」
遠くを見ながら、張遼が答える。曹操という人間を、頭に思い浮かべ。
そうして暫くして、陳宮が呟いた。
「私は、どうしても無情には生きられなかった」
烈士。ぼんやりと張遼の頭にそんな言葉が浮かんだ。
陳宮は、烈士だった。今もそうだ。
だからこそ彼は無情に生きられない。
無情さを求められる曹操のもとにも、在ることができない。
しかし陳宮の才の置き場は、曹操のもとにこそあったのだ。
皮肉だった。
陳宮が席を立った。胃を押さえていた手は横に下ろされている。
「帰るのか」
「ああ、…薬湯は、飲めないこともなかった」
不味かったが、と付け足し、陳宮は戸をくぐった。
そこで足を止める。
「張遼」
「忘れ物か?」
「口封じを忘れるところだった」
言いながら、陳宮が振り返る。
「今日、私は薬湯を頂いてそのまま室に戻った。その間は何も無かった」
「会話も?」
「薬湯が不味いとは言ったかもしれぬな」
そうして背を向け、陳宮は今度こそ室を出ていった。
閉じられた戸に向かって、張遼は呟く。
「神経質な男だ」
懐かしい夢を見た。
坐臥の上で目を覚ました張遼は、衣を正しながら呟く。
「無情、か」
あの軍師が夢見た平らな世は、近くにある。
無情でなくとも、かまわない。
そんな世にこそ、あの男は生まれてくればよかったのだ。