まるで無力な私たち

「こう戦の中にあると、死というものを身近に感じてしまうな」

苦笑混じりに軍師が言う。
張遼はそれを耳に、ただ空を見た。口を開く。

「死、か」
「どうせなら、名も知らぬ一兵卒に討たれたりはしたくないな」

「ではその時は私が討ち取ってやろうか」

笑いながら言った。冗談のつもりだった。

「お前ならば、まあ悪くはないかもしれないな」

軍師も笑った。
夕暮れは進む。
ゆらゆら揺れる日の光は、空から逃げるように、夜へと向かった。

「城外に兵が脱走していきます!もう、もちません!!」

ぎり、と得物を握り締める。
戦に負ける。そう思った。

呂布は生きているか。
呂布は戦っているか。

あの最強であらば、一人でもこの状況を打破できるというのか。

ただ一己の武で。

陳宮ーーーーーー!!」

空へ向かって叫び上げる。
日はゆったりと沈もうとしていた。

ぎりりぎりりと得物が軋む。歯が鳴る。

「お前にしては、余裕がないな」

静かな声が耳を打つ。
はっとして張遼は力を抜いた。

歯も、得物も折れるところだった。動揺していた。
振り返れば、武装した陳宮がただ笑いながらそこに居た。

「無事か」
「今のところはな」

彼の足元に数人の骸がある。
護衛の兵もその中に居た。

「討ち死にか」
「私達が?」

陳宮が言う。張遼は頷けなかった。
代わりに尋ねる。

「死にたいか」

「死にたいな」

なんて奇妙な会話だ。そう思った。

「あんな約束、するのではなかったな」

え、と言って張遼が顔を上げる。

「あんな約束をしたから、ここまで来たのだろう」

お見通しだった。微笑が消えている。
やめてほしい。そんな目は。

「…忘れたな」
「私は忘れていない、張遼」

陳宮が言う。
兵の喊声が大きくなってくる。

「私を斬って、持ち場に戻れ」

どの口がそんな言葉を吐くのだ。
張遼は、ただただ辛かった。

ぎりりぎりりと軋む。
得物が、歯が、心が。

ああ、何故戦に負けたのか。

「私は強くはない、張遼」

陳宮が言った。

「私はお前のようには強くないのだ、張遼」

わかっている。そう言いたかった。
けれどその次にくる言葉を想像してしまう。
何を言うかなど、わかっている。

「私を討て」

名も知らぬ人間には討たれたくない。
そう言った。昔に。

「陳宮」

ふっと顔を上げると、もうそこに彼はいなかった。

「陳…」

すぐ下で、一際大きい喊声が上がった。

まさか、と思った。
小窓から下を覗く。

陳宮が、囚われていた。
一瞬の間だった。

「陳宮ッ!」

走る。
遮る兵を刎ね、斬り、薙いだ。

その男は自分が討たねばならない。
その男だけは、自分が。

そう約束したのだ。

けれども追いつけない。

そうして私は、彼のたったひとつの願いを、果たせなかったのだ。

「夜になる」

冷えるな、といって軍師は笑った。

「何がおかしい」

「暗くなれば、人は自然と他人に優しくなる」

「そんなものか?」

「そんなものだ」

「夕方は、優しい人が一番苦しむ時間だな」

そう言って、軍師はただただ空を見た。
夜に、なろうとしていた。

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