こぼれていくひろいあつめるまたこぼれる
海原に身をゆだねる、正しくそのような心地であろうか。
それとも、煉獄の炎に包まれたような心地であろうか。
“最強”の傍に在るということは。
張文遠という男は、義直たる男である。
義を慈しみ、義を通し、義に従って生きる。
そしてやがては義に殉ずるであろうと、そう思わせる。
その生き様はただ一直線に見えぬ道を進むかのよう。
元来、人生には一本しか道はない。
それを何本にも感じるのは、それが折れ曲がったり直線になったりと、よく変化するからだ。
けれども進発、そして終着の地は決まっている。それが人生というものである。
張遼は、その1本の道の中で三度仕える主を変えた。
一度は、丁原から董卓へと。二度は、董卓からその義子呂布へと。
そうして最終的には曹操の下へ降る。
彼はのちの魏将(この頃はまだ曹孟徳の将にすぎない)と親しく交わった。
曹孟徳その人はもとより、その腹心たる夏侯惇、淵、曹洪、曹仁など、
後の曹魏の最たる将たちと親交を結んだのである。
降将を降将と扱うのではなく、張文遠そのものとして扱ったのがそれを援けた。
こうして張遼はその人の良さもあり、自然に曹孟徳の将に溶け込んだ。
ある日の折、夏侯惇が張遼に尋ねた事があった。酒の席であった。
他の参加者も皆酒が入り、中には踊りだす者もあった。
壇上で最も華美な舞をみせているのは曹操であった。
かくいう張遼も酒がはいっている。
心身を崩すほどには飲んでいなかったが、眼前には空になった献がいくつもある。
そんな折の夏侯惇の質問である。
「張遼は長い間呂布と同じ軍にいたそうだが、呂布は実際どんな男だった?」
これに張遼はしばし黙考し、言葉を選びながら答えた。
「呂布殿は、豪放磊落な方であった。その後ろには確かな武の威が控えており、
その力強い明るさに、常に励まされて進んできたようにも思う。
だが、一度だけ呂布殿が暗く沈まれた事があった」
言いつつ、張遼は目を伏せた。昔を想っているのだろうか。夏侯惇は次の言葉を待った。
張遼の黙考は今度は長かった。女が酒の入った瓶を手に、酌をする。
盃に白い酒が満たされるのを待ち、張遼は口を開いた。
「あの時も確か、このような席であったか…」
どんなに強くとも、天下無双の士であろうとも、
心には必ず隙が出来る。闇が訪れる時がある。
呂布も同じくそうであったのだろうか。
その時、下ヒを取り巻く情勢はめまぐるしく変わり続けていた。
城を取り巻く曹操・劉備の軍勢。
高く焚かれたかがり火の赤さが、嫌でも目につく。
そんな中、長く酒びたりであった呂布がふと諸将・文官を集めて酒宴を開いた。
誘いの言葉は短かった。酒を飲もう、ただその一言である。
そこに何の意図があったのか、若しくはなかったのか、今となっては解らない。
ともあれ、諸将・文官は文句を言わず集まった。
心に思うところがある者も多かったであろう。しかし、誰もその事に触れなかった。
酒宴である。城壁を隔てた先に曹操に囲まれている。その状況で酒宴である。
皆、一瞬であろうともその情勢、状況を忘れたいと願ったのではないだろうか。
皆楽しそうな顔で酒宴に乗じた。酒も多くある。
篭城のため、食料こそあまり出なかったが、酒だけは沢山出た。
張遼もその酒宴に参加していた。
潰れぬ程度にちびちびと酒をやっている。
外には曹操。彼だけは心にそれをとどめておこうとした。
忘れたくとも、忘れてはならない事である。
「張遼、もっと飲んだらどうだ」
声に目を遣れば、そこには呂布がいた。
すっかり出来あがっているのか、目元も顔も赤い。少し足取りもおかしかった。
「私はこれで充分です」
手にしている盃を掲げる。
この一杯さえ飲んだら、彼は自分の仕事に戻る心積もりであった。
呂布はそれに気付いたのであろう。酒の入った大きな瓶を抱えて注ぎにきたのだ。
「飲め。酒はいい、忘れたい事は全て忘れさせてくれるぞ」
「私には忘れたい事など、ございません」
ふ、と呂布が微笑った。満足げなようでいて、どこか物悲しい色がある。
呂布もわかっているのだ。それを繰り返したところで、何も変わらぬと。
それでもなお、この武人は酒を頼ってしまう。
そうして酒と女によって身を滅ぼす結果となるのだが、
この頃の呂布はまだ精神は壮健であった。
時折甘えこそ覗くが、決して必要以上に甘えない。
自分の実力と、軍の力を信じ、一分の勝利を信じていた。
張遼はそれを知っているからこそ、恥じることなく悔いることなく任務に就けた。
呂布は口を開く。
「ならば、俺の為に飲め。俺が忘れたい事を、お前が代わりに飲んで忘れてくれ」
「天下無双の士と謳われた呂布殿が、何を弱弱しいことを仰います。
この張文遠は個にあります。私が酒を飲んだとて、呂布殿に何もしてやれません」
厳しく張遼が答える。
一瞬でも弱気な事を言った自分を恥じ、一念発起してくれればという思いゆえだった。
しかし呂布はまた微笑んだ。彼が微笑むのは、よく考えれば珍しい事であった。
豪快に笑い飛ばすか、鼻で笑うか。そのどちらかが彼の笑い方であったのだ。
張遼はその珍しさにも、裏に隠れる不安にも気付かなかった。
「呂布とは、人中の呂布と呼ばれる男である。
最強の名を冠し、武を誇り、人たるを誇るのだ。
そう信じていたために、気付く事ができなかったのであろう」
今、夏侯惇の傍で酒を飲んでいる張遼は、そう呟いた。
その口元は微笑っている。
どこか物悲しいものを感じるその微笑に、夏侯惇は気付かぬふりをした。
最後に呂布殿は、と張遼は続けた。
それきり押し黙ってしまった呂布に、張遼は仕方なく盃を差出した。
「どうしてもと仰るのであれば、一献だけ頂きます。
それを飲んだら、私は室に戻らせて頂きます」
そうか、と呂布は呟いた。そうして酒の満ちた瓶から張遼の杯に酒を注ぐ。
杯は酒で満ちた。白く濁った酒に、呂布の顔が映る。
その顔が口を開いた。
「お前は水のようだな、張遼」
杯を見ていた張遼の目が、呂布へ戻る。
呂布は酒に映っていたその表情のまま、言葉を続けた。
「手にとろうとすれば、指の間から零れ落ちる。
いずれは俺のいない場所に居るのだろう。それが自然だと思う」
それきり呂布は黙ってしまった。
張遼も無言だった。
無言のまま杯の中の酒を飲み干して、呂布の杯に献酌する。
そうして呂布が頷くと、その席を立った。
室に戻る前に、張遼は呂布を振り返り、口を開いた。
「私には、呂布殿のいない場所など想像もつかない。
我が武は最強の武のもとで働かせるためにあるのです」
呂布はそれを聞いて微笑った。その笑みに悲しげな色はなかった。
酒宴が終わると、張遼は自分に与えられた邸へと帰途へついた。
少し飲みすぎたのか、その足元は少しだけ揺らいでいる。
(少しだけ話しすぎた)
ふう、と溜息をつく。
酒に任せて唇を滑った言葉は、思いの外張遼の心情を語っていた。
そのせいであろうか、誰もいなくなった暗い夜道で、
張遼は曹操の下へ降って初めて涙を流した。
声もなく、ただただとめどなく涙が流れている。
(呂布殿)
静かに張遼は溜息を漏らした。